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VOL1 美濃路の戦国武将たち
美濃路まちづくり推進協議会
関ヶ原の戦いの後、徳川家康により、街道整備が進められたため、美濃路は賑わいを見せた。そのため江戸時代以降に注目されることが多かった。 京都に都が移った平安時代(八世紀末)以後、京と東国を結ぶ重要な街道として、美濃の国府垂井町から尾張国府稲沢市を経て旧東海道に結ばれた街道が、現在の美濃路の源流であった。源頼朝は美濃路の起点熱田から街道を北へ進んだ熱田神宮の西にある、誓願寺で生まれたと言われている。頼朝が鎌倉幕府を開くと、京と鎌倉の二つの政権所在地を結ぶ東山道〜美濃路〜東海道は国内第1級の幹線道路となった。
1534年、織田信長は現在の名古屋城二の丸跡にあった那古野城で生まれた。小説で繰り返し書かれた、「うつけ」時代の信長は、この那古野城を中心として遊びまわっていた。なかでも、川遊びが得意で、美濃路が渡る庄内川は上流から下流まで川原が発達していて、格好の遊び場であった。信長の2つ年下であった秀吉も、美濃路よりやや下流の中村で生まれ、庄内川の川原で遊び、信長に遭遇していたと考えると、ロマンが満ち溢れてきます。信長の付家老平手政秀を困らせたり、斉藤道三の娘濃姫と結婚したり、父信秀の葬儀でお香を投げつけたり、正徳寺の会見で道三を心服させたのも那古野城時代です。
信長は21才で清洲城に入り、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)はこの年信長に仕えた。信長の清洲時代にはたくさんの歴史物語があります。美濃路の庄内川少し上流左岸に名塚というところがあります。信長が尾張統一の契機となった「稲生の戦い」が行われたところです。信長は清洲城を出て、庄内川の名塚川原を渡り、林通勝、林美作、柴田勝家らを撃破り、尾張統一への基礎を築いた。
前田利家が「槍の又左」と呼ばれ、まつと結婚。桶狭間の戦いでは清洲城で「敦盛」を舞い、美濃路を熱田まで駆け抜け、今川義元を討ち、美濃路を凱旋した。その翌年藤吉郎はねねと結婚し、前田利家の隣に住んだため、ねねとまつは親しくなった。
秀吉の「太閤記」にあるぞうり取りから、三日普請、墨俣の一夜城まで出世物語はこの地域が舞台となっています。ちなみに墨俣は美濃路の宿場です。
信長は清洲城に松平元康(後の徳川家康)を迎え同盟を結び(清洲の会盟)、以後、親密な協力関係を築いた。
のちに信長譜代の大名となった柴田勝家、林通勝、丹羽長秀、池田恒興、森可成、滝川一益、前田利家、佐々成政、佐久間信盛、山内一豊達、秀吉の家臣、豊臣秀長、豊臣秀次、蜂須賀小六、浅野長政、加藤清正、福島正則等も若き日々をこのあたりで過ごした。
秀吉は小田原の北条氏を降伏させ、全国統一をほぼ成し遂げての凱旋で、美濃路を通り、ふるさとに錦を飾った。清洲の五条橋の上で、地元に寄進したと伝えられている。
関ヶ原の戦いでは、東軍の拠点が清洲城で、三万数千の将兵がこのあたりに集結。西軍石田三成は美濃路大垣城で対峙していた。家康は本隊約三万の兵を従え、江戸から清洲に到着。休息の後、岐阜から中山道赤坂に陣を敷いた。一方、美濃路を攻め上がってくると予測していた三成は、家康が大垣城すぐ北の赤坂に進出したのに驚き、軍を関ヶ原に退いた。関が原の戦いはこうして始った。この戦いに勝った家康は戦後処理のため大阪へ上がった後、美濃路を凱旋し江戸へ下った。美濃路が吉例街道といわれる所以です。
長い戦国の時代を統一国家建設に向け、志半ばで倒れた多くの武将達やその家族、また、勝ち残ったもの達がこの地域を通り過ぎてゆきました。歴史に残されたものだけが語りかけてきますが、消え失せた無数の営みは、静かに思い巡らせるロマンの世界でのみ私達に語りかけてくれます。
私達のまちづくりは豊かな歴史に包まれた地域が特色です。ロマンが溢れるまちづくりになることを目指しています。
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